December 19, 2010
小さな鍵と記憶の言葉 84[小説]
ひやりと厳重な扉を引けば、その先には地下へと続く階段が待っていた。暗闇に向けて伸びていく灰色の階段。二人が並ぶので精一杯の螺旋階段は片側に手摺がなく、私達は奈落へと落ちないように壁伝いに下っていくしかなかった。
底から届く眩いほどの青白い光が間接的に階段を照らしていた。怖くて底を覗くことは出来ない。けれど刻々と、針と振り子の音が当たりを広く支配していた。
延々と、ぐるぐると降りていく。踵の音がやけに響く。それなのに振り子の音は、それ以上に穴の底から上がってくる。
十分か、三十分か、一時間か。
螺旋と光に感覚を奪われながら、やっと平坦な床に到達した。そして私は、その不思議さに息を飲んだ。円形の部屋は同形のプールを囲うように広がっていて、青白い光はその中から溢れている。ずっと聞こえていた時を刻む音さえ。横幅は五メートルくらい、水深は一メートルもない。そのプールの底を覆い隠すように、十二個の数字と長短の二本の針が互い違いに廻っている。
「これは、大きな――時計?」
プールの淵に両手を押し付けながらその水面を食い入るように見る。私の腕よりも太い鎖でぐるぐると拘束され、針ばかりが狂ったように動いている。
短針は前に、長針は後ろに。そして文字盤はガタガタと地震のように揺れ、今にも何処かへ飛び出して行ってしまいそうに鎖を引っ張っている。
「時間を刻むものだよ。この世界を動かしているもの。ヴァンダースナッチ」
白兎の声を押し隠すほどに、一瞬それが大きく暴れた。私は慌てて後ずさる。顔や髪に飛んできた水飛沫が電気を帯びたようにビリビリと染みる。痛い!思うまもなく飛沫は何事もなかったかのように蒸発した。
「この時計の螺子は、自分の命を持つ者でなければ巻けない。僕達のような置物や装飾品は、人々に守られなければ生きていけないから、触れることは出来ない」
白兎は水飛沫を浴びたことも気にせず、水の中を見下ろしている。過去も未来も刻めない哀れな時計を、まるで自分自身の苦しみのように見詰めている。
「でも、螺子巻きの時間は永遠ではないから」
ちらりと振り返った瞳も、また氷青色を帯びている。
「そのたびに、外から来たアリスがこの螺子を巻いてくれなければ、僕達の時間は止まってしまう。誰かが僕達を『見て』いてくれなければ、僕達はたちまち薄れて消えてしまう」
まるで懺悔だ、と思った。仕事とは言えあんなに笑みを絶やさなかった彼が今は一瞬も優しさを見せないまま。表情には冷たい戸惑いが多い。
「だから私を呼んだのね」
私は静かに尋ねる。白兎は黙ったまま、視線だけを返す。
「螺子を巻いてって、頼めばよかったのに」
「鍵は、使うほど離れられなくなるから」
ゆっくりと首を左右に振る。まだ後悔を携えたままの口元が、滔々と言葉を紡いだ。
「この世界に本当に息を吹き込めば、この世界と君の魂が繋がってしまうことになる。生きているうちは道を開けばいいけれど、君が寿命を終えたあとも、永遠に鍵と共にここに縛られることになる。二度と人間として自分の世界には戻れない」
「戻れない?」
「骨董品の一部になるということさ」
自嘲的な微笑が、見ているだけで辛い。
フィンは最初から、きちんと私と彼らを分けていた。初めの内に感じていた一定の距離の意味を、今知る。
私をここに引っ張ってきたときから、フィンは世界の終わりを知っていた。変えられない未来として受け入れていた。だから私がアリスになることを強要せず、帰り道を示してくれた。きっと、自分の最初で最後の我侭として。
「それでもいい」
「リラ?」
とっさに口を衝いていた。丸く見開かれた目が懸命に私を捕まえている。なんて馬鹿なことを言うんだろうと思ってるに違いない。
襟の下に隠していた鍵を引っ張り出した。いつの間にか鍵もまた青白い光の帯を纏っている。
思いつきでも何でもなかった。殆どを知らないまま此処に来たけれど、この世界にもう一度たどり着けた瞬間から、心のどこかで決めていたことだった。
「あなたは此処にいるもの。あなたと一緒にいられるなら、それで構わない」
言ってから、なんだか愛の告白みたいだなと気恥ずかしくなる。ああ、でも、あながち嘘でもないかもしれない。だって、彼も言っていたじゃない。愛情を注がなければ、彼は存在できないって。
「私はフィンに助けられたんだから。命をかけて恩返しさせてよ」
ちょっとだけ、苦し紛れに笑ってみる。ふふふ、と、私の照れ隠しに気付いたのか、フィンも同じようにして笑顔を見せてくれた。
「きっと、君は後悔するよ」
「しないよ、絶対に」
私は、アリスになる。未熟なアリスでも、役立たずのアリスでもいい。偶然選ばれた無意味な存在だとしても。
それでも、今の私に出来ることなら、それを望む。
底から届く眩いほどの青白い光が間接的に階段を照らしていた。怖くて底を覗くことは出来ない。けれど刻々と、針と振り子の音が当たりを広く支配していた。
延々と、ぐるぐると降りていく。踵の音がやけに響く。それなのに振り子の音は、それ以上に穴の底から上がってくる。
十分か、三十分か、一時間か。
螺旋と光に感覚を奪われながら、やっと平坦な床に到達した。そして私は、その不思議さに息を飲んだ。円形の部屋は同形のプールを囲うように広がっていて、青白い光はその中から溢れている。ずっと聞こえていた時を刻む音さえ。横幅は五メートルくらい、水深は一メートルもない。そのプールの底を覆い隠すように、十二個の数字と長短の二本の針が互い違いに廻っている。
「これは、大きな――時計?」
プールの淵に両手を押し付けながらその水面を食い入るように見る。私の腕よりも太い鎖でぐるぐると拘束され、針ばかりが狂ったように動いている。
短針は前に、長針は後ろに。そして文字盤はガタガタと地震のように揺れ、今にも何処かへ飛び出して行ってしまいそうに鎖を引っ張っている。
「時間を刻むものだよ。この世界を動かしているもの。ヴァンダースナッチ」
白兎の声を押し隠すほどに、一瞬それが大きく暴れた。私は慌てて後ずさる。顔や髪に飛んできた水飛沫が電気を帯びたようにビリビリと染みる。痛い!思うまもなく飛沫は何事もなかったかのように蒸発した。
「この時計の螺子は、自分の命を持つ者でなければ巻けない。僕達のような置物や装飾品は、人々に守られなければ生きていけないから、触れることは出来ない」
白兎は水飛沫を浴びたことも気にせず、水の中を見下ろしている。過去も未来も刻めない哀れな時計を、まるで自分自身の苦しみのように見詰めている。
「でも、螺子巻きの時間は永遠ではないから」
ちらりと振り返った瞳も、また氷青色を帯びている。
「そのたびに、外から来たアリスがこの螺子を巻いてくれなければ、僕達の時間は止まってしまう。誰かが僕達を『見て』いてくれなければ、僕達はたちまち薄れて消えてしまう」
まるで懺悔だ、と思った。仕事とは言えあんなに笑みを絶やさなかった彼が今は一瞬も優しさを見せないまま。表情には冷たい戸惑いが多い。
「だから私を呼んだのね」
私は静かに尋ねる。白兎は黙ったまま、視線だけを返す。
「螺子を巻いてって、頼めばよかったのに」
「鍵は、使うほど離れられなくなるから」
ゆっくりと首を左右に振る。まだ後悔を携えたままの口元が、滔々と言葉を紡いだ。
「この世界に本当に息を吹き込めば、この世界と君の魂が繋がってしまうことになる。生きているうちは道を開けばいいけれど、君が寿命を終えたあとも、永遠に鍵と共にここに縛られることになる。二度と人間として自分の世界には戻れない」
「戻れない?」
「骨董品の一部になるということさ」
自嘲的な微笑が、見ているだけで辛い。
フィンは最初から、きちんと私と彼らを分けていた。初めの内に感じていた一定の距離の意味を、今知る。
私をここに引っ張ってきたときから、フィンは世界の終わりを知っていた。変えられない未来として受け入れていた。だから私がアリスになることを強要せず、帰り道を示してくれた。きっと、自分の最初で最後の我侭として。
「それでもいい」
「リラ?」
とっさに口を衝いていた。丸く見開かれた目が懸命に私を捕まえている。なんて馬鹿なことを言うんだろうと思ってるに違いない。
襟の下に隠していた鍵を引っ張り出した。いつの間にか鍵もまた青白い光の帯を纏っている。
思いつきでも何でもなかった。殆どを知らないまま此処に来たけれど、この世界にもう一度たどり着けた瞬間から、心のどこかで決めていたことだった。
「あなたは此処にいるもの。あなたと一緒にいられるなら、それで構わない」
言ってから、なんだか愛の告白みたいだなと気恥ずかしくなる。ああ、でも、あながち嘘でもないかもしれない。だって、彼も言っていたじゃない。愛情を注がなければ、彼は存在できないって。
「私はフィンに助けられたんだから。命をかけて恩返しさせてよ」
ちょっとだけ、苦し紛れに笑ってみる。ふふふ、と、私の照れ隠しに気付いたのか、フィンも同じようにして笑顔を見せてくれた。
「きっと、君は後悔するよ」
「しないよ、絶対に」
私は、アリスになる。未熟なアリスでも、役立たずのアリスでもいい。偶然選ばれた無意味な存在だとしても。
それでも、今の私に出来ることなら、それを望む。
小さな鍵と記憶の言葉 83[小説]
もう一度白兎を呼ぶ。ずっとずっと夢の中で、頭の中で呼んでいた名前。私の声は教室ほどの空間に大きく響いて、一番奥に背を向けて立っていた誰かが、驚いたように振り返った。
「リラ?」
まるで夢を見ているかのような、ぼんやりとした表情。それが一瞬ふわりと綻んで、それから、みるみる現実に引き戻されて、動揺する。
「どうして……ここに」
私が駆け寄るとゆるく首を振った。大儀そうな動作は彼らしくなく、もしかしたら具合が悪いんじゃないかと心配が膨らんだ。
「戻ってきたの。みんなはどうなっちゃったの? 廊下のあちこちにある、あれは――?」
見てしまったんだね、と力なく笑った。驚いただろう?その目が問いかけてくるけれど、私はそれに首を振って遮る。
「どうもしないよ。魂が…時間が途切れて、器の姿に戻っただけ」
「でも、クリスはなんともなかった」
「彼はチェシャ猫だから。消えるのも現れるのも自分次第なんだ」
堪えるのを諦めたようにずるずると腰を折る。それからふうっと大きく息を吐いた。私は彼の傍らに膝をつく。重たそうな瞳が微笑んで、私を見る。
「彼に会ったんだね。よく、ここまで来られたね」
「『気が変わった』って言ってた。よくわからないけど」
「そうか。さすがは猫といったところかな。猫は一概に気紛れだ」
気のせいだと思うけれど、一瞬猫の声が聞こえた気がした。褒め言葉だね、と得意げに笑う声が。睨むように辺りを見渡しても、やっぱり面白がり屋の姿はない。
苦しげに溜息を吐くフィン。多分、彼の時間も残り少ないのだろう。彼は時を計るものだから暫くは自分で時間を調節できる。それでも、動き続けるには限界があるに違いない。
「また会えるなんて思ってもなかったよ」
話しかけるときばかり、フィンは努めて平然としたふりをしてみせた。それが嫌で、私は小さく首を振った。
「戻ってこないなんて一言も言わなかったでしょう?」
「でも」
「答えないで」
掌を捕まえると陶器のように冷たい。かすかに指先が疲労で震えている。時間がなかった。いつまでも彼を、彼達をこのままにしておきたくない。
「教えて。元に戻すには、どうすればいいの」
私よりひとまわりは大きなその手を温める。どちらに驚いたのか、両方なのか、彼は目を丸くした。予想していなかった言葉だなんて言わせない。その顔に不安と戸惑いと喜びが順々に巡る。喜びを必死に押し隠そうとしながらも、私を懸命に追い返そうとする様子も。
「私、分かったことがあるの。貴方も、城の皆も、忘れたくない。ずっと一緒にいるなんてできっこないって知ってるけど、それでも、少しでも貴方達の手助けになりたい」
やっとフィンの指先がじわり温かさを持つ。紫の瞳は食い入るように私へと注がれる。信じたいという気持ちと、覆すことを恐れる気持ち。やっぱりフィンは真面目だ。私よりずっと。誰よりも器用に見えて、実際は自分を一番後回しにして小さな幸せすら逃がしてしまう。
私の知らない過去も、以前のアリスのときも、今も。その性格を見極めることが出来るくらいには傍に居たのだから。
「お願い。もう一度皆に会いたい。今度こそ、アリスになるって言いたい。だから、この世界を平和にする方法を教えて」
葛藤に視線が揺れる。フィンは何かを言おうとして、すぐにまた口を閉ざした。私は黙って彼の答えを待った。口を挟んだらそのまま飲み下されてしまう気がして。
たっぷりと十秒待ってから、白兎が顔を上げる。
「螺子を巻くんだ。時間が止まってしまわないように」
「時間――」
彼は小さく顎を引いた。私の復唱に対して、そうだよ、と強調を示す。
「螺子は何で巻くか、知っているね」
「うん。大丈夫」
私は満面の笑みと共に、得意げに首から提げていたそれを彼に見せた。白兎は一瞬目をぱちくりとさせたけれど、すぐに何かおかしかったようで、くすくすと忍び笑いを零した。
「じゃあ行こう。一番下へ――地下へ」
そうして、私の手を引いて立ち上がる。目の先には、鋼鉄製の暗い扉がひとつ。
「リラ?」
まるで夢を見ているかのような、ぼんやりとした表情。それが一瞬ふわりと綻んで、それから、みるみる現実に引き戻されて、動揺する。
「どうして……ここに」
私が駆け寄るとゆるく首を振った。大儀そうな動作は彼らしくなく、もしかしたら具合が悪いんじゃないかと心配が膨らんだ。
「戻ってきたの。みんなはどうなっちゃったの? 廊下のあちこちにある、あれは――?」
見てしまったんだね、と力なく笑った。驚いただろう?その目が問いかけてくるけれど、私はそれに首を振って遮る。
「どうもしないよ。魂が…時間が途切れて、器の姿に戻っただけ」
「でも、クリスはなんともなかった」
「彼はチェシャ猫だから。消えるのも現れるのも自分次第なんだ」
堪えるのを諦めたようにずるずると腰を折る。それからふうっと大きく息を吐いた。私は彼の傍らに膝をつく。重たそうな瞳が微笑んで、私を見る。
「彼に会ったんだね。よく、ここまで来られたね」
「『気が変わった』って言ってた。よくわからないけど」
「そうか。さすがは猫といったところかな。猫は一概に気紛れだ」
気のせいだと思うけれど、一瞬猫の声が聞こえた気がした。褒め言葉だね、と得意げに笑う声が。睨むように辺りを見渡しても、やっぱり面白がり屋の姿はない。
苦しげに溜息を吐くフィン。多分、彼の時間も残り少ないのだろう。彼は時を計るものだから暫くは自分で時間を調節できる。それでも、動き続けるには限界があるに違いない。
「また会えるなんて思ってもなかったよ」
話しかけるときばかり、フィンは努めて平然としたふりをしてみせた。それが嫌で、私は小さく首を振った。
「戻ってこないなんて一言も言わなかったでしょう?」
「でも」
「答えないで」
掌を捕まえると陶器のように冷たい。かすかに指先が疲労で震えている。時間がなかった。いつまでも彼を、彼達をこのままにしておきたくない。
「教えて。元に戻すには、どうすればいいの」
私よりひとまわりは大きなその手を温める。どちらに驚いたのか、両方なのか、彼は目を丸くした。予想していなかった言葉だなんて言わせない。その顔に不安と戸惑いと喜びが順々に巡る。喜びを必死に押し隠そうとしながらも、私を懸命に追い返そうとする様子も。
「私、分かったことがあるの。貴方も、城の皆も、忘れたくない。ずっと一緒にいるなんてできっこないって知ってるけど、それでも、少しでも貴方達の手助けになりたい」
やっとフィンの指先がじわり温かさを持つ。紫の瞳は食い入るように私へと注がれる。信じたいという気持ちと、覆すことを恐れる気持ち。やっぱりフィンは真面目だ。私よりずっと。誰よりも器用に見えて、実際は自分を一番後回しにして小さな幸せすら逃がしてしまう。
私の知らない過去も、以前のアリスのときも、今も。その性格を見極めることが出来るくらいには傍に居たのだから。
「お願い。もう一度皆に会いたい。今度こそ、アリスになるって言いたい。だから、この世界を平和にする方法を教えて」
葛藤に視線が揺れる。フィンは何かを言おうとして、すぐにまた口を閉ざした。私は黙って彼の答えを待った。口を挟んだらそのまま飲み下されてしまう気がして。
たっぷりと十秒待ってから、白兎が顔を上げる。
「螺子を巻くんだ。時間が止まってしまわないように」
「時間――」
彼は小さく顎を引いた。私の復唱に対して、そうだよ、と強調を示す。
「螺子は何で巻くか、知っているね」
「うん。大丈夫」
私は満面の笑みと共に、得意げに首から提げていたそれを彼に見せた。白兎は一瞬目をぱちくりとさせたけれど、すぐに何かおかしかったようで、くすくすと忍び笑いを零した。
「じゃあ行こう。一番下へ――地下へ」
そうして、私の手を引いて立ち上がる。目の先には、鋼鉄製の暗い扉がひとつ。
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December 18, 2010
小さな鍵と記憶の言葉 82[小説]
薄暗い回廊を、ローファーの踵を響かせながら走った。
一週間前とは似ても似つかない、窓からの光さえ一閃も照らさない城内。高い天井も幅広い廊下も、今となっては陰鬱で静謐だ。
城の中であっても、ひとの気配ひとつない。それでも私は、とある場所を目指して息を切らした。時折道行く隅に食器や装飾品が落ちていて、それを危なっかしく避けながら走る。
『フィン・フロストは時計塔の地下にいるよ』。
今はチェシャ猫の言葉を頼りにするしかない。執務室も謁見室も見向きもせずに、ただただあの時計塔を目指していた。城の象徴と言うべき大きな時計塔。そうだ、確か、私が一番最初に迷い込んでカードに窘められたあの扉の向こう。
私は道を急いで、三月兎の庭を突っ切った。薔薇に囲まれていた庭園は、今はその鮮やかさの見る影もない。ジョシュアが優雅にお茶を楽しんでいたテーブルはそのままだったけれど、やはりそこにも友人の姿はなかった。
まるで先刻まで紅茶を楽しんでいたかのように、真っ白なクロスの上には紅茶の入ったカップ。見慣れないのは新調したらしい白磁の優美なポットだった。
なんて綺麗なポットだろう。アンティークのようにも見えるけれどよく手入れされている。
それから、テーブルの反対側には何故かガラスのランプが飾られている。こちらも私の見慣れないもので、それ以前にどうしてこんな屋外に、と一瞬だけ首を傾げる。
対岸の廊下へ上がる。けれど、ここで失敗に気がついた。――鍵が開いていない。
ガチャガチャと揺さぶってみたけれど、すぐに頭を切り替えて来た道を戻る。
段々足が言うことをきかなくなってきた。スタミナなら吹奏楽で鍛えられていると思っていたけれど、やっぱり運動能力はそう簡単にあがってくれないらしい。
一度二階へ上がって連絡通路を抜ける。途中でルーシャの部屋を通りかかる。やはり部屋の中に気配はない。
――皆、何処にいってしまったのだろう。
ふと目を遣ったのは偶然だったけれど、廊下の窓際に何か大きな装置のようなものが置いてあるのに気づいた。確か、水煙草だ。そういえばここはルーシャのお気に入りの場所で、よく通りがかりの薔薇に喫煙を注意されるのをかわしていたっけ。
これがルーシャのものだというのは確かのようだ。けれど、やっぱり私は見せてもらったことがない。
少し行った所に今度は装飾ナイフが落ちている。更に進めば、今度はトランペット。なんだろう、今日は城のあちこちで見慣れないものが妙なところに置いてばかりある。それなのに、顔見知りには全くもって会えていない。
傷のついた水晶玉。東洋風の水差し。年代もののドレス。どこかの貴族の紋章が刻まれた宝石箱。ああ、そういえば、あの紋章は《王》が身につけていたネクタイピンにもあった。そうすると、あれもまた彼のものだろうか。すぐ傍には大きな石のブローチ。これはこれで値が張りそうだ。そういえばこれは《女王》の髪留めとデザインが似ている。
それに気付いた途端、なにかそわそわと落ち着かなくなる。恐る恐る今来た道を振り返る。
どうしてだか、どれも全て『誰か』の顔を連想させるものばかりだ。なのに、誰一人姿がない。
まるで彼らの代わりにそこにあるような。
「――まさか、ね」
呟いた独り言には説得力がない。
散らばったトランプ。薔薇の飾られていない花瓶。床に直接置かれた銀食器。 まさか、まさか。
そしてその思いは、鳥籠を通り抜けるときに確信に変わる。
緑に覆われたドームの中央、木の幹に寄り添うように立てられた一枚の絵。
私はその絵画に息を呑む。
木漏れ日の中、転寝する様子を写し取った絵に見えた。風に吹かれて揺れる薄いレースのカーテン。テーブルに飾られたスミレの花。食べかけのケーキ。
そして、テーブルに伏せるようにして眠る少年。私は彼を知っている気がした。
透明な肌に、光の糸のように輝くシルバーブロンド。寄宿舎の一角のような室内、サスペンダー姿の少年。きっと閉ざされた瞳は美しい緑色をしているのだろう。
それは、その姿は、いつも寝てばかりの庭師と瓜二つ。
「……メリル?」
とっさに名前を呼んでしまうくらいに、その絵は自然で現実感があった。まるで本当にそこで眠っているかのような。彼がそのまま絵の中に入り込んでしまったかのような。
辺りを見渡したって、眠り鼠の影はない。
違う。彼が入り込んでしまったんじゃない。反対だ。おそらく、少年が抜け出した姿こそがメリルなんだ。
もしかして。
城の彼方此方で見た骨董品は。
持ち主の顔が浮かぶ品々は。
立ち止まりそうになるのを、懸命に前へと進む。厨房も女王の間も、覗かないまま時計塔の前へとやってきた。
取っ手のない扉。唯一開いた鍵穴に、首から提げていたそれを差し入れる。
途端にひとりでに、内側に向かって戸が開いた。
私は声が震えるのも我慢して、奥に居るはずの彼の名を呼んだ。
「いるんでしょう、フィン!」
一週間前とは似ても似つかない、窓からの光さえ一閃も照らさない城内。高い天井も幅広い廊下も、今となっては陰鬱で静謐だ。
城の中であっても、ひとの気配ひとつない。それでも私は、とある場所を目指して息を切らした。時折道行く隅に食器や装飾品が落ちていて、それを危なっかしく避けながら走る。
『フィン・フロストは時計塔の地下にいるよ』。
今はチェシャ猫の言葉を頼りにするしかない。執務室も謁見室も見向きもせずに、ただただあの時計塔を目指していた。城の象徴と言うべき大きな時計塔。そうだ、確か、私が一番最初に迷い込んでカードに窘められたあの扉の向こう。
私は道を急いで、三月兎の庭を突っ切った。薔薇に囲まれていた庭園は、今はその鮮やかさの見る影もない。ジョシュアが優雅にお茶を楽しんでいたテーブルはそのままだったけれど、やはりそこにも友人の姿はなかった。
まるで先刻まで紅茶を楽しんでいたかのように、真っ白なクロスの上には紅茶の入ったカップ。見慣れないのは新調したらしい白磁の優美なポットだった。
なんて綺麗なポットだろう。アンティークのようにも見えるけれどよく手入れされている。
それから、テーブルの反対側には何故かガラスのランプが飾られている。こちらも私の見慣れないもので、それ以前にどうしてこんな屋外に、と一瞬だけ首を傾げる。
対岸の廊下へ上がる。けれど、ここで失敗に気がついた。――鍵が開いていない。
ガチャガチャと揺さぶってみたけれど、すぐに頭を切り替えて来た道を戻る。
段々足が言うことをきかなくなってきた。スタミナなら吹奏楽で鍛えられていると思っていたけれど、やっぱり運動能力はそう簡単にあがってくれないらしい。
一度二階へ上がって連絡通路を抜ける。途中でルーシャの部屋を通りかかる。やはり部屋の中に気配はない。
――皆、何処にいってしまったのだろう。
ふと目を遣ったのは偶然だったけれど、廊下の窓際に何か大きな装置のようなものが置いてあるのに気づいた。確か、水煙草だ。そういえばここはルーシャのお気に入りの場所で、よく通りがかりの薔薇に喫煙を注意されるのをかわしていたっけ。
これがルーシャのものだというのは確かのようだ。けれど、やっぱり私は見せてもらったことがない。
少し行った所に今度は装飾ナイフが落ちている。更に進めば、今度はトランペット。なんだろう、今日は城のあちこちで見慣れないものが妙なところに置いてばかりある。それなのに、顔見知りには全くもって会えていない。
傷のついた水晶玉。東洋風の水差し。年代もののドレス。どこかの貴族の紋章が刻まれた宝石箱。ああ、そういえば、あの紋章は《王》が身につけていたネクタイピンにもあった。そうすると、あれもまた彼のものだろうか。すぐ傍には大きな石のブローチ。これはこれで値が張りそうだ。そういえばこれは《女王》の髪留めとデザインが似ている。
それに気付いた途端、なにかそわそわと落ち着かなくなる。恐る恐る今来た道を振り返る。
どうしてだか、どれも全て『誰か』の顔を連想させるものばかりだ。なのに、誰一人姿がない。
まるで彼らの代わりにそこにあるような。
「――まさか、ね」
呟いた独り言には説得力がない。
散らばったトランプ。薔薇の飾られていない花瓶。床に直接置かれた銀食器。 まさか、まさか。
そしてその思いは、鳥籠を通り抜けるときに確信に変わる。
緑に覆われたドームの中央、木の幹に寄り添うように立てられた一枚の絵。
私はその絵画に息を呑む。
木漏れ日の中、転寝する様子を写し取った絵に見えた。風に吹かれて揺れる薄いレースのカーテン。テーブルに飾られたスミレの花。食べかけのケーキ。
そして、テーブルに伏せるようにして眠る少年。私は彼を知っている気がした。
透明な肌に、光の糸のように輝くシルバーブロンド。寄宿舎の一角のような室内、サスペンダー姿の少年。きっと閉ざされた瞳は美しい緑色をしているのだろう。
それは、その姿は、いつも寝てばかりの庭師と瓜二つ。
「……メリル?」
とっさに名前を呼んでしまうくらいに、その絵は自然で現実感があった。まるで本当にそこで眠っているかのような。彼がそのまま絵の中に入り込んでしまったかのような。
辺りを見渡したって、眠り鼠の影はない。
違う。彼が入り込んでしまったんじゃない。反対だ。おそらく、少年が抜け出した姿こそがメリルなんだ。
もしかして。
城の彼方此方で見た骨董品は。
持ち主の顔が浮かぶ品々は。
立ち止まりそうになるのを、懸命に前へと進む。厨房も女王の間も、覗かないまま時計塔の前へとやってきた。
取っ手のない扉。唯一開いた鍵穴に、首から提げていたそれを差し入れる。
途端にひとりでに、内側に向かって戸が開いた。
私は声が震えるのも我慢して、奥に居るはずの彼の名を呼んだ。
「いるんでしょう、フィン!」
December 17, 2010
[小説]Open sesame 2/弐
二人は郊外の展望台に来ていた。灰色の重たい雲。眼下に広がる街並み。先刻まで紛れていた交差点が、今はこんなにも遠い。
お寒くありませんか、と気を遣う携帯端末に、平気、と短く返す。無風の高台は反対に不気味さを憶えた。エメラルド色のマフラーを巻き直し、ポケットから取り出したのは、銀色。それを無言のまま見詰める。
「どのように使うのですか」
同様に視線を注いで携帯端末が訊ねる。安里は首を傾げた。
「猫の言っていた通りよ。鍵は扉を開けるのに必要なもの」
けれど、今度は携帯端末が訝しむ。それならば、鍵に合う扉は何処にあるのか。
それを知る機会はすぐに訪れた。見晴台には目もくれず、ベンチも東屋も立ち寄ることなく、敷地の隅にあるプレハブの建物を目指す。以前は店があったのかもしれない。軒下のガラス戸は締め切られ、雨戸が立てられてある。中は見えない。
「ここね」
二人は小さな建物の裏手に回った。そこには勝手口らしき灰色のドアがひとつ。すっかり錆付いたドアノブは外され、捻る場所も見当たらない。取り外したのか壊れたのか、何年もそのままのように見えた。それでも安里は確信していた。
これこそが、扉。
「こうして、どこかの世界の入り口を探していくの」
「何か目印はあるのですか」
「ないわ」
気にも留めないように主人が答えるものだから、携帯端末は呆気に取られる。ややあって、くすりと彼女が笑う。どうやら自分の反応を見たらしい。
「目印はないけど、太陽と月と時計の針、方角に気をつければ簡単よ」
コートの袖を少し捲り上げ、文字盤を確認する。デジタルではなくて円盤に針の動くアナログ時計。二本の針が交差し、もうひとつの針がせかせかと動いている。
「例えば今なら、3時15分15秒。方角は真東。そして真上に月」
栞が空を仰ぐと、確かに薄くて白い月が其処に埋もれていた。二つの針が東を指すように向き直る。そして、15秒の訪れを待った。あと、20秒、15秒。じっと扉を注視する。
と、平らだった板の上に変化が現れる。
今まで影一つ落ちていなかった表面に、もやもやと黒い穴が浮かび上がった。
ドアノブがあった場所のすぐ下の位置、まるでそのドアの鍵穴のように。勿論そんな筈は有り得ない。扉は後付けの蝶番と鎖で閉じられているだけで、扉としての機能さえ失っているのだから。
あと8秒。ゆらゆらと震えていた穴の振動が薄くなる。3秒。一瞬だけ大きく広がった穴が、再び伸縮していく。そして15分17秒。そこには紛れもない『鍵穴』が彼女達を待ち侘びていた。
何のためらいもなく、安里はそこに銀の鍵を差し込んだ。くるり、右側へ反転させると、軽快な開錠の音が響いた。鍵を引き抜くと独りでに扉が開いていく。
それは音もなく。何の抵抗もなく。
「さあ、行きましょう。立ち止まっている暇はないわ」
溢れるのは眩い光。そのために、扉の向こう側に何があるかは識別できなかった。
空想物書きはためらいもなくその隙間へと体を滑り込ませた。慌ててその後を追いかける、従者の男。
そして彼は、展開した風景に息を呑むこととなる。
それが二人の、長くも短い旅の始まり。
続きを読む
お寒くありませんか、と気を遣う携帯端末に、平気、と短く返す。無風の高台は反対に不気味さを憶えた。エメラルド色のマフラーを巻き直し、ポケットから取り出したのは、銀色。それを無言のまま見詰める。
「どのように使うのですか」
同様に視線を注いで携帯端末が訊ねる。安里は首を傾げた。
「猫の言っていた通りよ。鍵は扉を開けるのに必要なもの」
けれど、今度は携帯端末が訝しむ。それならば、鍵に合う扉は何処にあるのか。
それを知る機会はすぐに訪れた。見晴台には目もくれず、ベンチも東屋も立ち寄ることなく、敷地の隅にあるプレハブの建物を目指す。以前は店があったのかもしれない。軒下のガラス戸は締め切られ、雨戸が立てられてある。中は見えない。
「ここね」
二人は小さな建物の裏手に回った。そこには勝手口らしき灰色のドアがひとつ。すっかり錆付いたドアノブは外され、捻る場所も見当たらない。取り外したのか壊れたのか、何年もそのままのように見えた。それでも安里は確信していた。
これこそが、扉。
「こうして、どこかの世界の入り口を探していくの」
「何か目印はあるのですか」
「ないわ」
気にも留めないように主人が答えるものだから、携帯端末は呆気に取られる。ややあって、くすりと彼女が笑う。どうやら自分の反応を見たらしい。
「目印はないけど、太陽と月と時計の針、方角に気をつければ簡単よ」
コートの袖を少し捲り上げ、文字盤を確認する。デジタルではなくて円盤に針の動くアナログ時計。二本の針が交差し、もうひとつの針がせかせかと動いている。
「例えば今なら、3時15分15秒。方角は真東。そして真上に月」
栞が空を仰ぐと、確かに薄くて白い月が其処に埋もれていた。二つの針が東を指すように向き直る。そして、15秒の訪れを待った。あと、20秒、15秒。じっと扉を注視する。
と、平らだった板の上に変化が現れる。
今まで影一つ落ちていなかった表面に、もやもやと黒い穴が浮かび上がった。
ドアノブがあった場所のすぐ下の位置、まるでそのドアの鍵穴のように。勿論そんな筈は有り得ない。扉は後付けの蝶番と鎖で閉じられているだけで、扉としての機能さえ失っているのだから。
あと8秒。ゆらゆらと震えていた穴の振動が薄くなる。3秒。一瞬だけ大きく広がった穴が、再び伸縮していく。そして15分17秒。そこには紛れもない『鍵穴』が彼女達を待ち侘びていた。
何のためらいもなく、安里はそこに銀の鍵を差し込んだ。くるり、右側へ反転させると、軽快な開錠の音が響いた。鍵を引き抜くと独りでに扉が開いていく。
それは音もなく。何の抵抗もなく。
「さあ、行きましょう。立ち止まっている暇はないわ」
溢れるのは眩い光。そのために、扉の向こう側に何があるかは識別できなかった。
空想物書きはためらいもなくその隙間へと体を滑り込ませた。慌ててその後を追いかける、従者の男。
そして彼は、展開した風景に息を呑むこととなる。
それが二人の、長くも短い旅の始まり。
終
Next is …
in Mocking-aurora.
Next is …
in Mocking-aurora.
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小さな鍵と記憶の言葉 81[小説]
青色の水面から顔を出した瞬間、もしかしたら間違ってのではないかという不安が私の中を支配した。
涙の海の岸。
斑色に染まった空と、色褪せた大地。その向こうに真っ白な城壁を見ても尚、ここがあの世界だという確信が持てない。
それはまさに忘却の国と言う様な。
草原の躍動は大波のように荒れ狂い、城下町の外の壁は『街』を保たせるので精一杯のように見えた。私はあんなに賑わっていた市場、今はゴーストタウンのように煤けた通りを駆け抜ける。
誰もいない。息を潜める気配すら感じられない。時折軒先に食器や小物が忘れられたままになっているのを見るくらいで、誰一人すれ違うこともなかった。
とにかく、白兎に会わなきゃ。
けれど駆け寄った門には苛立ちを憶えるしかない。門番の姿がない――これじゃ、城に入ることも出来ない。
「誰か! 誰かいませんか! カードでも薔薇でもいいから!」
右の拳を叩きつけても、分厚い扉を揺らすことすら叶わない。中に誰かいないだろうか、咽そうになりながら、私は何度も何度も呼びかける。
「誰か!」
『ネズミかな』
突然、私の叫びに静かに応じる声が聞こえた。驚いて振り返る。何せその声は門の向こうからではなく、私のすぐ後ろから聞こえたから。
その人には見覚えがあった。へなへなと座り込みそうな自分の足を叱りながら、それでも見知った顔に会えたことで小さな安心感を抱えた。
『違うね。女の子だ』
「クリス…!?」
琥珀色の髪と瞳。いつもは埃っぽい本の森に潜んでいるはずの猫が、すぐ傍に立っていた。
『やあリラ、久しぶりだね。てっきり帰ったと思っていたけれど、僕の思い違いだったかな』
彼の暢気な口振りに泣きそうになる。こんなに荒んだ世界の中に居て、クリスティの姿は以前と何も変わらなかった。ただ唯一、その輪郭を縁取ったかのように色褪せた世界から浮き出して見えた。私は再会を喜ぶことも惜しんで彼に尋ねる。
「これは…どうなってるの」
恐怖と安堵から声が震えている。猫が『落ち着いて』と笑うので、深呼吸を三回繰り返してからもう一度彼を問いただした。
『終わるのさ。全てが』
猫が興味なさげに胸元のリボンタイを弄る。欠伸をかみ殺して耳をかく自由さはまるで本当の猫を見ているようだ。けれど私は彼ほど冷静ではいられない。
「終わる? 何が?」
『白兎が決断を下した。世界は閉じ始めているんだ。アリスが居なくなってから、空には太陽が出なくなった。住んでいたモノタチの存在も薄れ始めている』
欠伸をもうひとつ。私はというと、到底寛げる話題ではない。
閉じ始めている? 終わりを迎えようとしている?
それは正にガーネットが望んでいた通りに。けれど、フィンはそれを良しとしなかったはずだ。アリスという摂理を守り、この国の形を守ろうとしていたはずだ。
それなのに、どうして彼が。彼は一体何を決意したというのだろう。
「どうして。行く末を決めるのはアリスのはずでしょう」
『そうだとも。けれどもう、アリスはいない。鍵とともに城から遠ざかってしまった』
その目が真っ直ぐに私を見詰めた。射抜くような琥珀色が、光を纏って金色に輝く。
『アリスは帰ったのさ。兎の穴を抜け出して、現実の世界へ戻っていった』
「でも、私はここにいる」
『そうだね。何故だろう? 現実と夢は、綺麗に分かれたはずなのに』
どこかでガラリと瓦礫の崩れる音がした。はるか頭上から。城壁の高さを通り越して更に上。もしかして、空が崩れた音なのかもしれない。
来て良かったと強く思う。間に合うことが出来るかもしれない。世界の終わりも、この国の行く先も、たくさんのひとたちも。鍵とアリスが揃えば、あるいは。
私の心を読み取ったのかもしれない。今まで関心のなさそうだった彼の瞳に、ふいに好奇心の色が移った。関心と興味。それが何によって駆り立てられたのかは、私自身には分からない。
「迷いし少女よ。もう一度尋ねよう」
刹那、空中を掻くように右手を振りかざした。見えない何かを首にまく仕草。何かを剥ぎ取ったように、何かを羽織ったように。彼の輪郭が日常に元通り馴染み、反響していた声がやけにクリアに聞こえた。今度は、はっきりと。
「見たことのない子だね。名前は?」
それは猫のような全てを見透かすにやにや笑い。
「私は……」
自ら望んで口に出すのは初めてだったように思う。私は最初から選択を誤魔化して、あまつさえ白兎の約束に甘えていた。
だから、今度こそ答えを出す番だ。たとえ未熟なままでも、この城を左右するアリスの意思が必要だった。私は胸を張って、ずっと言うべきだった言葉を、強く発した。
「私はアリスよ。この世界の《アリス》」
猫の微笑みが一層深く、優しくなった。
涙の海の岸。
斑色に染まった空と、色褪せた大地。その向こうに真っ白な城壁を見ても尚、ここがあの世界だという確信が持てない。
それはまさに忘却の国と言う様な。
草原の躍動は大波のように荒れ狂い、城下町の外の壁は『街』を保たせるので精一杯のように見えた。私はあんなに賑わっていた市場、今はゴーストタウンのように煤けた通りを駆け抜ける。
誰もいない。息を潜める気配すら感じられない。時折軒先に食器や小物が忘れられたままになっているのを見るくらいで、誰一人すれ違うこともなかった。
とにかく、白兎に会わなきゃ。
けれど駆け寄った門には苛立ちを憶えるしかない。門番の姿がない――これじゃ、城に入ることも出来ない。
「誰か! 誰かいませんか! カードでも薔薇でもいいから!」
右の拳を叩きつけても、分厚い扉を揺らすことすら叶わない。中に誰かいないだろうか、咽そうになりながら、私は何度も何度も呼びかける。
「誰か!」
『ネズミかな』
突然、私の叫びに静かに応じる声が聞こえた。驚いて振り返る。何せその声は門の向こうからではなく、私のすぐ後ろから聞こえたから。
その人には見覚えがあった。へなへなと座り込みそうな自分の足を叱りながら、それでも見知った顔に会えたことで小さな安心感を抱えた。
『違うね。女の子だ』
「クリス…!?」
琥珀色の髪と瞳。いつもは埃っぽい本の森に潜んでいるはずの猫が、すぐ傍に立っていた。
『やあリラ、久しぶりだね。てっきり帰ったと思っていたけれど、僕の思い違いだったかな』
彼の暢気な口振りに泣きそうになる。こんなに荒んだ世界の中に居て、クリスティの姿は以前と何も変わらなかった。ただ唯一、その輪郭を縁取ったかのように色褪せた世界から浮き出して見えた。私は再会を喜ぶことも惜しんで彼に尋ねる。
「これは…どうなってるの」
恐怖と安堵から声が震えている。猫が『落ち着いて』と笑うので、深呼吸を三回繰り返してからもう一度彼を問いただした。
『終わるのさ。全てが』
猫が興味なさげに胸元のリボンタイを弄る。欠伸をかみ殺して耳をかく自由さはまるで本当の猫を見ているようだ。けれど私は彼ほど冷静ではいられない。
「終わる? 何が?」
『白兎が決断を下した。世界は閉じ始めているんだ。アリスが居なくなってから、空には太陽が出なくなった。住んでいたモノタチの存在も薄れ始めている』
欠伸をもうひとつ。私はというと、到底寛げる話題ではない。
閉じ始めている? 終わりを迎えようとしている?
それは正にガーネットが望んでいた通りに。けれど、フィンはそれを良しとしなかったはずだ。アリスという摂理を守り、この国の形を守ろうとしていたはずだ。
それなのに、どうして彼が。彼は一体何を決意したというのだろう。
「どうして。行く末を決めるのはアリスのはずでしょう」
『そうだとも。けれどもう、アリスはいない。鍵とともに城から遠ざかってしまった』
その目が真っ直ぐに私を見詰めた。射抜くような琥珀色が、光を纏って金色に輝く。
『アリスは帰ったのさ。兎の穴を抜け出して、現実の世界へ戻っていった』
「でも、私はここにいる」
『そうだね。何故だろう? 現実と夢は、綺麗に分かれたはずなのに』
どこかでガラリと瓦礫の崩れる音がした。はるか頭上から。城壁の高さを通り越して更に上。もしかして、空が崩れた音なのかもしれない。
来て良かったと強く思う。間に合うことが出来るかもしれない。世界の終わりも、この国の行く先も、たくさんのひとたちも。鍵とアリスが揃えば、あるいは。
私の心を読み取ったのかもしれない。今まで関心のなさそうだった彼の瞳に、ふいに好奇心の色が移った。関心と興味。それが何によって駆り立てられたのかは、私自身には分からない。
「迷いし少女よ。もう一度尋ねよう」
刹那、空中を掻くように右手を振りかざした。見えない何かを首にまく仕草。何かを剥ぎ取ったように、何かを羽織ったように。彼の輪郭が日常に元通り馴染み、反響していた声がやけにクリアに聞こえた。今度は、はっきりと。
「見たことのない子だね。名前は?」
それは猫のような全てを見透かすにやにや笑い。
「私は……」
自ら望んで口に出すのは初めてだったように思う。私は最初から選択を誤魔化して、あまつさえ白兎の約束に甘えていた。
だから、今度こそ答えを出す番だ。たとえ未熟なままでも、この城を左右するアリスの意思が必要だった。私は胸を張って、ずっと言うべきだった言葉を、強く発した。
「私はアリスよ。この世界の《アリス》」
猫の微笑みが一層深く、優しくなった。