December 12, 2010
小さな鍵と記憶の言葉 78[小説]
どういうことなのか急には理解出来なかった。やがて瞬きを繰り返すうちに、夢を見ていたのだろうと気がついた。長い長い夢、けれど確かに存在した夢。それが私の作り出したものかは分からないけれど、この秋空の下に薔薇の香りも振り子の音も届いては来なかった。
「如月さん?」
それが自分を呼ぶ声だと気付くには少し時間が欲しかった。何故だか、その呼び方が私を指すものだとピンと来なくて。さっきまで私は何と呼ばれていたのか、誰の声が呼んだのか、首を巡らして確認した。
「何してるの、こんな所で」
「え…? うそ……どうして?」
改めて自分が居る場所を噛み締める。夏の暑さを引き摺ったベンチに、きらきらと水の輝く噴水。そして目の前には一人の男子高校生が立っていて、不思議そうに私の顔を覗き込んでいた。
彼には見覚えがある。あるもなにも、いつも走り込んでいる姿を眺めていた。クラスも部活も違えば接点なんてないけれど、彼は確かに私の名前を呼んだ。鉦原瑞穂君だ。
「どうしてって、俺が聞きたいよ」
鉦原くんは少し困ったように呆れたように眉根を寄せて、
「いくら開放的で健全な公園でも、女の子がうたた寝はさすがにまずいでしょ」
苦笑しながら私の居眠りを嗜める。慌てて携帯電話を見れば、液晶画面の表示は眠り込む前と何も変わっていない。ただ時計の針だけが少し、三十分ほど先に進んでいる。
夢――夢だったのだろうか。耳を澄ましても誰かの声は聞こえない。紫色の哀しげな瞳は、瞼を閉じた瞬間だけ思い出すことができた。
私は立ち上がって、覗き込んだはずの噴水へと近寄った。やっぱり鐘の音は聞こえてこない。その代わり、淵についた手の甲がちりちりと痛んで、私に存在を示す。
階段の手摺にぶつけた時の傷。そのはずだけれど、それを確実にしてくれる証拠も残っていない。騎士の姿もトカゲの姿も、最後に笑った彼の顔も、思い出すことしか出来ない。
「フィン……」
握り込んだ手の甲につめたい飛沫が届いて、私の声はか細く水音に紛れてしまう。
「3組の鉦原くん…だよね」
「そうだけど」
まるで意外だと言うように、同級生の彼はこくりと頷いた。私より頭一つ以上高い視線を振り返りながら、ベンチのカバンを拾い上げる。
「家、こっちのほうなの?」
「……やっぱり忘れてるか」
今度は小さく溜息を吐く。私は良く分からないまま、彼の言ったことを反芻して首を傾げる。
「一応、小学校同じだったんだけど。何回かクラスも一緒だった――って言っても一回か二回くらいかな」
憶えてないよな、と納得して頷く姿に今度は慌ててしまう。ちょっと拗ねたような横顔に幼い面差しが重なった気がして、思わず声を上げた。
「もしかして、『ミズホ』くん?」
今度は、そうだよ、と短く正解の頷き。
「まぁ俺の名前は君ほどインパクトないし、中学は別々だったから仕方ないよ」
「カネハラミズホなんて格好いいじゃない?」
「そう? 『二月のリラ』なんて派手な名前には負けるけどね」
冗談めかして笑うから、私も何かを誤魔化すように微笑みを浮かべる。
何か言葉を交わしていないと、何かを追いかけてしまいそうで。見つからないはずのものを探してしまいそうで。
そういった意味でも、ここで彼と会えたのは嬉しかった。私よりずっと前を進んでいる人が本当は話してみれば気さくで近しくて。学校を少し出れば、本当はどこにでもいる男の子だということ。誰だって私と同じ場所を歩いているんだということ。住む世界なんて、そんなに大きく変わらないこと。
「で、こんなとこで何してたの。昼寝?」
「うーん…ちょっと違うかな」
私は、手の甲を摩りながら苦笑した。もう痛さなんてほとんど残っていない。白兎の声も、どんどん遠ざかっていってしまう。
これでよかったのだろうか。私は、何か、忘れてきたような気がしていた。
「夢を見てたの。長くて短い夢を」
「辛い夢だった?」
「どうしてそう思うの」
私の中に残る夢の欠片を見据えているかのように、真っ直ぐな目がじっとこちらを見る。
「だって、今にも泣きそうな顔してる」
私は『そんなことないよ』と呟いて、こっそり手の甲で目尻を拭った。
「如月さん?」
それが自分を呼ぶ声だと気付くには少し時間が欲しかった。何故だか、その呼び方が私を指すものだとピンと来なくて。さっきまで私は何と呼ばれていたのか、誰の声が呼んだのか、首を巡らして確認した。
「何してるの、こんな所で」
「え…? うそ……どうして?」
改めて自分が居る場所を噛み締める。夏の暑さを引き摺ったベンチに、きらきらと水の輝く噴水。そして目の前には一人の男子高校生が立っていて、不思議そうに私の顔を覗き込んでいた。
彼には見覚えがある。あるもなにも、いつも走り込んでいる姿を眺めていた。クラスも部活も違えば接点なんてないけれど、彼は確かに私の名前を呼んだ。鉦原瑞穂君だ。
「どうしてって、俺が聞きたいよ」
鉦原くんは少し困ったように呆れたように眉根を寄せて、
「いくら開放的で健全な公園でも、女の子がうたた寝はさすがにまずいでしょ」
苦笑しながら私の居眠りを嗜める。慌てて携帯電話を見れば、液晶画面の表示は眠り込む前と何も変わっていない。ただ時計の針だけが少し、三十分ほど先に進んでいる。
夢――夢だったのだろうか。耳を澄ましても誰かの声は聞こえない。紫色の哀しげな瞳は、瞼を閉じた瞬間だけ思い出すことができた。
私は立ち上がって、覗き込んだはずの噴水へと近寄った。やっぱり鐘の音は聞こえてこない。その代わり、淵についた手の甲がちりちりと痛んで、私に存在を示す。
階段の手摺にぶつけた時の傷。そのはずだけれど、それを確実にしてくれる証拠も残っていない。騎士の姿もトカゲの姿も、最後に笑った彼の顔も、思い出すことしか出来ない。
「フィン……」
握り込んだ手の甲につめたい飛沫が届いて、私の声はか細く水音に紛れてしまう。
「3組の鉦原くん…だよね」
「そうだけど」
まるで意外だと言うように、同級生の彼はこくりと頷いた。私より頭一つ以上高い視線を振り返りながら、ベンチのカバンを拾い上げる。
「家、こっちのほうなの?」
「……やっぱり忘れてるか」
今度は小さく溜息を吐く。私は良く分からないまま、彼の言ったことを反芻して首を傾げる。
「一応、小学校同じだったんだけど。何回かクラスも一緒だった――って言っても一回か二回くらいかな」
憶えてないよな、と納得して頷く姿に今度は慌ててしまう。ちょっと拗ねたような横顔に幼い面差しが重なった気がして、思わず声を上げた。
「もしかして、『ミズホ』くん?」
今度は、そうだよ、と短く正解の頷き。
「まぁ俺の名前は君ほどインパクトないし、中学は別々だったから仕方ないよ」
「カネハラミズホなんて格好いいじゃない?」
「そう? 『二月のリラ』なんて派手な名前には負けるけどね」
冗談めかして笑うから、私も何かを誤魔化すように微笑みを浮かべる。
何か言葉を交わしていないと、何かを追いかけてしまいそうで。見つからないはずのものを探してしまいそうで。
そういった意味でも、ここで彼と会えたのは嬉しかった。私よりずっと前を進んでいる人が本当は話してみれば気さくで近しくて。学校を少し出れば、本当はどこにでもいる男の子だということ。誰だって私と同じ場所を歩いているんだということ。住む世界なんて、そんなに大きく変わらないこと。
「で、こんなとこで何してたの。昼寝?」
「うーん…ちょっと違うかな」
私は、手の甲を摩りながら苦笑した。もう痛さなんてほとんど残っていない。白兎の声も、どんどん遠ざかっていってしまう。
これでよかったのだろうか。私は、何か、忘れてきたような気がしていた。
「夢を見てたの。長くて短い夢を」
「辛い夢だった?」
「どうしてそう思うの」
私の中に残る夢の欠片を見据えているかのように、真っ直ぐな目がじっとこちらを見る。
「だって、今にも泣きそうな顔してる」
私は『そんなことないよ』と呟いて、こっそり手の甲で目尻を拭った。
December 11, 2010
[小説]キツネアザミの来訪者 2/弐
常葉に連れられ、店の裏の保管庫へと通される。縦長の敷地の最奥はブロック塀で、境界線沿いに低木が茂みを成している。ちらりと目をやれば、敷地の角の部分に小さい鳥居と社があった。扉の前に鎮座する石造は狐のように見えた。
分厚い扉には重厚な南京錠がかけられているくせに、今は扉も明かり窓も全開だった。埃を掻き出していた最中なのだと聞き、やはり『彼らしい』と眉をしかめて笑った。
「貴方もこれくらい勤労だと助かるけど」
悪戯に安里が含むと、携帯端末がにこりと笑う。
「主人の収納力の無さは私の責任ではありません」
深い黒色の扉を潜る。保管庫は地下含め三階建てになっていた。差し込む光のために陰鬱さは無いが、独特の無音が空間を占めている。改めて見渡すその室内。階下にパチリと電球が灯る。
保管庫の中は、驚くほど仕舞われているものが少なかった。ひとつひとつ施錠されたケージやガラスケースは大半が空っぽで、突き当たりの一区画にだけ預かり物の古書や骨董品が収められている。
うちは『万屋』であって骨董店ではないために、商品を取り扱うことは少ないのだと、安里達を引き連れてきた男が言い加える。それでもこの建物があるのは、先代、先々代の仕事の名残という話だ。
「やはりないようだね」
鍵を開ける必要も無く、行李すら開かぬままに常葉が断言した。試しに見渡した室内の何処に何があるべきなのか、しっかりと把握しているらしい。右端のガラス戸をじっと眺めてから息を吐く。
「お役に立てず申し訳ない。今は依頼が少ないので、巡り合わせも限られるようだ」
裏の古本屋に聞いてみようかと提言を貰うが、それについては辞退を申し出た。幾分か安里の顔に微苦笑が浮かんでいて、それを見た栞は怪訝そうに首を傾げる。
「けれど――そうだね、気配がする。きっと近いところに来ている」
不満ひとつ漏らさずに、安里は首を縦に振った。
「どれくらい?」
「キミの心のまま」
エントランスに戻れば、いつしか二階から人の声がしていた。常葉が眉を上げたのを見るとどうやら知り合いの客人らしい。声は男女のものがひとつずつ、片方は翠仙で、もう一方も彼女と同じくらいの年端の少年。安里が首を傾げる間もなく、それらが扉のほうへと近づいてくる。
「だから、来週末も忙しいから無理って言ってるでしょ」
「そう言ってこの前の連休も帰ってこなかったじゃないか。覚えてる?父さんの誕生日」
「そんなの、覚えてるはず――」
言葉の途中で応接室の戸が開く。階下を見下ろすのはどちらも制服姿だった。制服と言っても作業服や仕事着ではなく、暖茶系統のブレザー。翠仙と同じ市内の高校の制服である。
「いらっしゃい朱音くん」
「お邪魔してます、常葉さん」
常葉がにこりと笑う。ばつが悪そうに口元をひきつらせる翠仙の横で、ブレザーの少年が何故か訝しげに彼を見たのを、安里は見逃さなかった。
「お騒がせして申し訳ないです。お客さんですか?」
「そんな所かな。どうだろう?」
常葉は確認を取るように二人の客人を振り返った。果たしてどうするのかと、栞は己の主人を見守る。
「お客さんになり損なった者よ」
それはまるで謎かけのよう。困惑を浮かべる新たなる客人を眺めてから、彼女は悪戯に破顔した。
分厚い扉には重厚な南京錠がかけられているくせに、今は扉も明かり窓も全開だった。埃を掻き出していた最中なのだと聞き、やはり『彼らしい』と眉をしかめて笑った。
「貴方もこれくらい勤労だと助かるけど」
悪戯に安里が含むと、携帯端末がにこりと笑う。
「主人の収納力の無さは私の責任ではありません」
深い黒色の扉を潜る。保管庫は地下含め三階建てになっていた。差し込む光のために陰鬱さは無いが、独特の無音が空間を占めている。改めて見渡すその室内。階下にパチリと電球が灯る。
保管庫の中は、驚くほど仕舞われているものが少なかった。ひとつひとつ施錠されたケージやガラスケースは大半が空っぽで、突き当たりの一区画にだけ預かり物の古書や骨董品が収められている。
うちは『万屋』であって骨董店ではないために、商品を取り扱うことは少ないのだと、安里達を引き連れてきた男が言い加える。それでもこの建物があるのは、先代、先々代の仕事の名残という話だ。
「やはりないようだね」
鍵を開ける必要も無く、行李すら開かぬままに常葉が断言した。試しに見渡した室内の何処に何があるべきなのか、しっかりと把握しているらしい。右端のガラス戸をじっと眺めてから息を吐く。
「お役に立てず申し訳ない。今は依頼が少ないので、巡り合わせも限られるようだ」
裏の古本屋に聞いてみようかと提言を貰うが、それについては辞退を申し出た。幾分か安里の顔に微苦笑が浮かんでいて、それを見た栞は怪訝そうに首を傾げる。
「けれど――そうだね、気配がする。きっと近いところに来ている」
不満ひとつ漏らさずに、安里は首を縦に振った。
「どれくらい?」
「キミの心のまま」
エントランスに戻れば、いつしか二階から人の声がしていた。常葉が眉を上げたのを見るとどうやら知り合いの客人らしい。声は男女のものがひとつずつ、片方は翠仙で、もう一方も彼女と同じくらいの年端の少年。安里が首を傾げる間もなく、それらが扉のほうへと近づいてくる。
「だから、来週末も忙しいから無理って言ってるでしょ」
「そう言ってこの前の連休も帰ってこなかったじゃないか。覚えてる?父さんの誕生日」
「そんなの、覚えてるはず――」
言葉の途中で応接室の戸が開く。階下を見下ろすのはどちらも制服姿だった。制服と言っても作業服や仕事着ではなく、暖茶系統のブレザー。翠仙と同じ市内の高校の制服である。
「いらっしゃい朱音くん」
「お邪魔してます、常葉さん」
常葉がにこりと笑う。ばつが悪そうに口元をひきつらせる翠仙の横で、ブレザーの少年が何故か訝しげに彼を見たのを、安里は見逃さなかった。
「お騒がせして申し訳ないです。お客さんですか?」
「そんな所かな。どうだろう?」
常葉は確認を取るように二人の客人を振り返った。果たしてどうするのかと、栞は己の主人を見守る。
「お客さんになり損なった者よ」
それはまるで謎かけのよう。困惑を浮かべる新たなる客人を眺めてから、彼女は悪戯に破顔した。
次
(続:扉の章)
(続:扉の章)
December 09, 2010
永久凍土 [散文]
銀色の砂礫が視界を塗り潰して行く。
虚空に浮かぶ月。灰青色の地平線。見渡せど人工物らしき影は何処にも見当たらず、無限の砂丘が彼女達を見下ろしていた。
防砂に体を包む麻の外套は唯一二人を助ける盾だった。背負った袋には何も詰め込まれていないまま、ただ時間だけが経過していく。けれど、その場所には時間という概念など全く意味を成さないもので、たとえばその腕の時計がいつの間にか停止していても、彼女は一向に奇妙になど思わなかっただろう。
目標は見つからない。もう逃げられてしまったのかもしれない。さ迷い歩く彼女のすぐ傍を、赤毛の男が追従していく。
「疲れませんか」
控えめな呼びかけに、少女は一瞥さえ返さない。
「大丈夫」
半ば口癖のように断りながら、不安定な足跡を刻んでいく。
時折、思い出したように彼の横顔を盗み見る。
けれどそれすら『彼』には想定内で、わざと視線を交差させては春の太陽のようにふわりと微笑した。
「それとも、キミは帰りたい?」
誤魔化すように少女は眉を顰める。
「貴女の気が済むまでお付き合いします」
『愛していますよ』
そう言われる度に、少女はどうしようもなく泣きたくなる。
夢だったら良かったのに。自分へと向けられたあの言葉が、自分の夢であればよかったのに。
あれ以来彼は『僕』と共に行動する時間が増え、下手をすれば始終一緒に居る気さえしている。電池が切れるように夜の入り口で眠りに落ち、太陽の眩しさに目を眩ませる瞬間から彼は彼女の前に居た。
もし本当だったらと思うと、怖くて確かめることができないのだ。
別に主人を持つはずの彼が、僕にばかり従うということ。
目立って連絡を取る様子も、長く傍を離れることも、思い当たらない。ならば、どうやって両者を成立させているのか。否、成立しているのか。もし万一、従っているのが此方だけだと確定してしまったら。少女はそれを恐れているのだ。
『愛しています』
その言葉が真実でも虚偽だとしても、こんなに苦しいなんて思いもしなかった。
想いが届かないうちは叶うことばかり願ったのに、その眼が自分を見るようになってからは臆病な自分が首を擡げた。
僕達は、僕は、禁忌の契約を結んでしまったのだ。解けることのない永遠の呪いを彼にかけてしまった。タイミングを計ったように自分へ贈られる言葉。純粋な彼の言葉。けれどそれゆえに、その透明さは少女を檻の奥へ追い遣って行く。
――僕は、愛される資格はあるだろうか?
――彼を愛する資格はあるだろうか?
時々不安になって、諮るように彼へと向ける選択肢。『キミはこれでいいのか』『僕に従うことは、間違いではないのか』。何れの疑問にも、赤髪の彼は同意も拒否も示さない。微笑を持って彼女の行動を待ち、従う。
それからというもの、少女は徐々に口数が減っていた。時に能弁だった会話の間も話題も全て放棄し、返って来ない彼の本心を希求することも止め、振り向いては未だ傍に居てくれることを喜び、畏れた。
裏に隠れるはずの彼女のあるべき事実を追い求める。
自分の納得できる真実を、いつだって渇望しているのだ。
「 」
彼の名前を呼ぶ。
かたくなに、ファーストネームではなくファミリーネームを。
本心からの言葉を必死になって疑いながら。疑っているのはいつも自分の価値だった。
「そろそろ戻ろう」
この、創られた命さえ、誰かを愛することは許されるのか。
少女の心は砂漠の中に居て尚、凍えるように冷たいままだった。
虚空に浮かぶ月。灰青色の地平線。見渡せど人工物らしき影は何処にも見当たらず、無限の砂丘が彼女達を見下ろしていた。
防砂に体を包む麻の外套は唯一二人を助ける盾だった。背負った袋には何も詰め込まれていないまま、ただ時間だけが経過していく。けれど、その場所には時間という概念など全く意味を成さないもので、たとえばその腕の時計がいつの間にか停止していても、彼女は一向に奇妙になど思わなかっただろう。
目標は見つからない。もう逃げられてしまったのかもしれない。さ迷い歩く彼女のすぐ傍を、赤毛の男が追従していく。
「疲れませんか」
控えめな呼びかけに、少女は一瞥さえ返さない。
「大丈夫」
半ば口癖のように断りながら、不安定な足跡を刻んでいく。
時折、思い出したように彼の横顔を盗み見る。
けれどそれすら『彼』には想定内で、わざと視線を交差させては春の太陽のようにふわりと微笑した。
「それとも、キミは帰りたい?」
誤魔化すように少女は眉を顰める。
「貴女の気が済むまでお付き合いします」
『愛していますよ』
そう言われる度に、少女はどうしようもなく泣きたくなる。
夢だったら良かったのに。自分へと向けられたあの言葉が、自分の夢であればよかったのに。
あれ以来彼は『僕』と共に行動する時間が増え、下手をすれば始終一緒に居る気さえしている。電池が切れるように夜の入り口で眠りに落ち、太陽の眩しさに目を眩ませる瞬間から彼は彼女の前に居た。
もし本当だったらと思うと、怖くて確かめることができないのだ。
別に主人を持つはずの彼が、僕にばかり従うということ。
目立って連絡を取る様子も、長く傍を離れることも、思い当たらない。ならば、どうやって両者を成立させているのか。否、成立しているのか。もし万一、従っているのが此方だけだと確定してしまったら。少女はそれを恐れているのだ。
『愛しています』
その言葉が真実でも虚偽だとしても、こんなに苦しいなんて思いもしなかった。
想いが届かないうちは叶うことばかり願ったのに、その眼が自分を見るようになってからは臆病な自分が首を擡げた。
僕達は、僕は、禁忌の契約を結んでしまったのだ。解けることのない永遠の呪いを彼にかけてしまった。タイミングを計ったように自分へ贈られる言葉。純粋な彼の言葉。けれどそれゆえに、その透明さは少女を檻の奥へ追い遣って行く。
――僕は、愛される資格はあるだろうか?
――彼を愛する資格はあるだろうか?
時々不安になって、諮るように彼へと向ける選択肢。『キミはこれでいいのか』『僕に従うことは、間違いではないのか』。何れの疑問にも、赤髪の彼は同意も拒否も示さない。微笑を持って彼女の行動を待ち、従う。
それからというもの、少女は徐々に口数が減っていた。時に能弁だった会話の間も話題も全て放棄し、返って来ない彼の本心を希求することも止め、振り向いては未だ傍に居てくれることを喜び、畏れた。
裏に隠れるはずの彼女のあるべき事実を追い求める。
自分の納得できる真実を、いつだって渇望しているのだ。
「 」
彼の名前を呼ぶ。
かたくなに、ファーストネームではなくファミリーネームを。
本心からの言葉を必死になって疑いながら。疑っているのはいつも自分の価値だった。
「そろそろ戻ろう」
この、創られた命さえ、誰かを愛することは許されるのか。
少女の心は砂漠の中に居て尚、凍えるように冷たいままだった。
了
彗星舎・輪音女史『遠いミライ』へトラックバック
BGM:やくしまるえつことd.v.d/アラビアンリップ
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December 08, 2010
そういえば師走なんです
今朝の起床時、急に「さむい!?」ってなりました。
布団から出たくない、この懐かしい感覚…
抜け出した途端『早く家に帰りたい』と絶望を憶えるこの感覚。
まさしく冬です。
というかやっと気付いたんですけど、今って12月なんですね。
カレンダーを何度見てもしっくりこないこと請け合いです。
先月…ええと10月?え!先月って11月なの!?ってなります。
この調子だと新年もあっという間なんだろうなぁ。
ここで新年へ向けての抱負をひとつ。
PC機器周りを一新する。
せっかくのPSPも何故かアクセスポイントが拾えずにただの記録端末です。
メインのノートさんも何故かシグナルが中くらいに低下しています。
もう3年も使ってるのでだめなんでしょうかね。
そういえば設置のときに業者さんが「寿命は3年くらいですかねー」とおっしゃっていた気がします。
…ところで、我が家の辺りには光は来たのでしょうか。
噂では近所の中学は入って小学校は届かないという話。
また微妙な距離感です。
布団から出たくない、この懐かしい感覚…
抜け出した途端『早く家に帰りたい』と絶望を憶えるこの感覚。
まさしく冬です。
というかやっと気付いたんですけど、今って12月なんですね。
カレンダーを何度見てもしっくりこないこと請け合いです。
先月…ええと10月?え!先月って11月なの!?ってなります。
この調子だと新年もあっという間なんだろうなぁ。
ここで新年へ向けての抱負をひとつ。
PC機器周りを一新する。
せっかくのPSPも何故かアクセスポイントが拾えずにただの記録端末です。
メインのノートさんも何故かシグナルが中くらいに低下しています。
もう3年も使ってるのでだめなんでしょうかね。
そういえば設置のときに業者さんが「寿命は3年くらいですかねー」とおっしゃっていた気がします。
…ところで、我が家の辺りには光は来たのでしょうか。
噂では近所の中学は入って小学校は届かないという話。
また微妙な距離感です。
December 07, 2010
小さな鍵と記憶の言葉 77[小説]
「気付いていた? 僕と君は一度、向こうの世界で逢っていた」
フィンは時計塔の方向を見つめたまま言った。私は彼を見上げて首を傾げる。それが分かったのか、口元がほんの少し綻んだ。
「まるで時の止まってしまった薄暗い部屋で、僕はずっと埃を被っていた。ただ刻々と時間だけが動いて、その割りには誰も僕の存在を思い出してはくれなかった」
それは独り言のようでもあった。私に言いながら、自分の中に確かめるように。そして私は、ごくりと息を飲む。何故だろう、この話は、心当たりがある。
「部屋の扉を開けたのは、幼い少女の小さな手。夜の帳をかいくぐって、たったひとり迷い込んだ小さな光」
カチ、コチと、聞こえないはずの振り子の音がする。ずっと心に引っかかっていたもやもやが突然晴れていく。
「――そうして僕を、みつけてくれたね」
「あなた…もしかして――」
彼の微笑みに寂しさが映った。
「僕達は、誰かに大切にされなければ生きていけない」
紫色の瞳が真っ直ぐに私を見る。
「存在を保つには誰かの愛情が必要だった。だから僕達はここに集まった。――言っただろう? ここはWander land。忘却をむかえた、彷徨えるものたちの世界だ」
ワンダーランド、彷徨いの国。ここは最初から不思議の国《Wonder land》じゃなかった。だからソフィーナもセレスもケイも、あんなにアリスのことを想っていた。
でも――でも、ちょっと待って。だったら、アリスのいなくなった世界はどうなってしまうの?
私の不安は、彼の両腕によって遮られる。
「一目会えればいいなって思ったんだ」
気付いたら私は彼の腕に抱きしめられていた。こうされるのは二度目で二人の立つ場所も同じだけれど、別れの抱擁は前よりもずっと温かくて、そして不安になった。
「やっとガーネットの気持ちが分かった気がする」
私の耳にも届かない呟きがすぐ傍で消える。鐘の音が響いている。あれは幾つ目の鐘だろう。私にはあとどれくらいの時間が残されているんだろう。
「お別れだ、アリス。いいや、莉良」
「待って、まだ話は終わってない」
彼の顔を見ようと懸命に温かさから逃れようとする。けれど、思った以上にしっかりと抱えた腕が、それを許してくれない。
「この世界のことは気にしなくていい。崩れる運命だったんだから」
風の音に似た時の音が響く。必死に掴む彼の袖。抗議を混めて引っ張って、少しだけその拘束が緩まった。
「待ってよ、フィン! 私――」
「君は」
やっとの思いでその腕から逃れる。けれどそれは私の力じゃなくて、役目を終えた彼が私を解放しただけだった。
一番初めみたいに、吸い込まれそうな紫の瞳。ひとつ、ふたつ、鐘の音が響く。
「――君は、自分の居場所を見失っては駄目だよ」
視界が青色に染まった。湖が波立って私を包み込む。鐘の音が余韻を残して止まる。きっとあれが十二回目の音だったのだろう。
青色が白い光に変わる。酸素を逃すまいと体を縮める。そして意識が遠のいて――私は目を開けた。
そこは噴水の側のベンチ。
制服姿でカバンを抱えた私が、ぼんやりと座り込んでいる。
フィンは時計塔の方向を見つめたまま言った。私は彼を見上げて首を傾げる。それが分かったのか、口元がほんの少し綻んだ。
「まるで時の止まってしまった薄暗い部屋で、僕はずっと埃を被っていた。ただ刻々と時間だけが動いて、その割りには誰も僕の存在を思い出してはくれなかった」
それは独り言のようでもあった。私に言いながら、自分の中に確かめるように。そして私は、ごくりと息を飲む。何故だろう、この話は、心当たりがある。
「部屋の扉を開けたのは、幼い少女の小さな手。夜の帳をかいくぐって、たったひとり迷い込んだ小さな光」
カチ、コチと、聞こえないはずの振り子の音がする。ずっと心に引っかかっていたもやもやが突然晴れていく。
「――そうして僕を、みつけてくれたね」
「あなた…もしかして――」
彼の微笑みに寂しさが映った。
「僕達は、誰かに大切にされなければ生きていけない」
紫色の瞳が真っ直ぐに私を見る。
「存在を保つには誰かの愛情が必要だった。だから僕達はここに集まった。――言っただろう? ここはWander land。忘却をむかえた、彷徨えるものたちの世界だ」
ワンダーランド、彷徨いの国。ここは最初から不思議の国《Wonder land》じゃなかった。だからソフィーナもセレスもケイも、あんなにアリスのことを想っていた。
でも――でも、ちょっと待って。だったら、アリスのいなくなった世界はどうなってしまうの?
私の不安は、彼の両腕によって遮られる。
「一目会えればいいなって思ったんだ」
気付いたら私は彼の腕に抱きしめられていた。こうされるのは二度目で二人の立つ場所も同じだけれど、別れの抱擁は前よりもずっと温かくて、そして不安になった。
「やっとガーネットの気持ちが分かった気がする」
私の耳にも届かない呟きがすぐ傍で消える。鐘の音が響いている。あれは幾つ目の鐘だろう。私にはあとどれくらいの時間が残されているんだろう。
「お別れだ、アリス。いいや、莉良」
「待って、まだ話は終わってない」
彼の顔を見ようと懸命に温かさから逃れようとする。けれど、思った以上にしっかりと抱えた腕が、それを許してくれない。
「この世界のことは気にしなくていい。崩れる運命だったんだから」
風の音に似た時の音が響く。必死に掴む彼の袖。抗議を混めて引っ張って、少しだけその拘束が緩まった。
「待ってよ、フィン! 私――」
「君は」
やっとの思いでその腕から逃れる。けれどそれは私の力じゃなくて、役目を終えた彼が私を解放しただけだった。
一番初めみたいに、吸い込まれそうな紫の瞳。ひとつ、ふたつ、鐘の音が響く。
「――君は、自分の居場所を見失っては駄目だよ」
視界が青色に染まった。湖が波立って私を包み込む。鐘の音が余韻を残して止まる。きっとあれが十二回目の音だったのだろう。
青色が白い光に変わる。酸素を逃すまいと体を縮める。そして意識が遠のいて――私は目を開けた。
そこは噴水の側のベンチ。
制服姿でカバンを抱えた私が、ぼんやりと座り込んでいる。