続、引越しの練習[小説]Aurora syndrome 2/弐

November 20, 2010

[小説]Aurora syndrome 1/壱

0:序章 すべてのはじまり

「11時04分です」
 
 街の喧騒の中で、その声はよく耳に馴染んだ。
 平坦な声で現在時刻を告げるのは女の相方。スケジュールの全てを管理している彼にとって、規定の時刻を知らせることなど職務のうちにも含まれないほど些細な役目だった。女はそれでも癖のようにつけた腕時計を見下ろし、両者の時計にズレが生じていないことを確認しては首を傾げる。
 肌寒くなりだした外気を、マフラーとコートで遮断する。長年愛用のカーキ色のコート。新調したブーツとスカートに心を躍らせていたのはもう1時間も前のことで、今はただ、定期的に左腕の時計を気にするばかりだった。
 「さすがにおかしいよね」
 『彼』は頷いた。その表情は露ほども疑問を感じている風ではなかったけれど、最初から主人の疑念を晴らす手伝いのつもりで同意を示すようにも見える。
 11月の末、月曜の朝。珍しく連休が取れたと思い、近しき友人と待ち合わせるひとりの女性。彼女の名は安里としておこう。黒髪をゆるく後ろで束ね、耳朶に空色の石を光らせている。そのすぐ傍らに控えるスーツの青年は彼女より頭一つ半ほど背丈があり、一見すれば仕事中のサラリーマンにも見えるが、実のところは生身の人間ではない。
「待ち合わせ時刻から34分と28秒経過していますね」
 青年が今日の予定を改めて諳んじる。安里は僅かに唇を噛んだ。何が、来週の月曜日に会おう、だ。こっちは折角の休みを返上してわざわざ人の多い場所に出てきたと言うのに。
 彼女は元来合理主義で、一般社会のルールを破ることが好きではない。道徳、モラル、摂理。とりわけ待ち合わせの時間に遅れることを良しとしないし、土壇場でねじ込まれる約束事にも乗り気にはならない。それが連勤明けの午前早くであれば尚更だ。
 そんな主人の心中を察してか、男が素知らぬ顔つきで進言する。
 
「時間合わせにソレイユへでも参りましょうか」
「あんたねぇ。いくらアサトとの待ち合わせでも、それはないでしょ」
 これには又、主人が渋り声を上げる。遮られつつも男は躊躇うこともなく続けた。
 
「鴇田さんとの待ち合わせだからでございます。恐れながら申し上げますと、鴇田アサト女史と約束をされた場合、彼女が待ち合わせに遅れた回数は僅かに二度。いずれも事前連絡があり、遅刻時分も僅か十分以内に収まっております」
 
 それを聞いて固く唇を引き結ぶ。無論、そんなことは言われなくても分かっているのだ。
 何せ『彼女』は彼女の分身。彼女がどんな人間かなどは安里が最も良く知っている。彼女同様、約束を破るということは万が一にも有り得そうもなかった。だからこそ仮定の、可能性の話をする。
「つまり、連絡の暇も惜しむような急用が入った可能性があるってこと?」
「僭越ながら、可能性もなきにしもあらずではと」
 浅く頷く顎を受け、軽く溜息をつく。その手で入力端末を取り出す。そのまま一つ目のボタンを押すのに、男は俊敏に反応して応える。
 
「お繋げ致しますか」
「お願い」
 
 肯定とともに彼女の番号が呼び出される。受話口を横顔に近付け、静かに応答を待った。くるくると番号の読み込まれる音。それから幾許の無音。やっとの通電。けれど。
 
 ――『お掛けになった電話は現在使われておりません』。
 
 思わず眉をしかめる。怪訝な表情を浮かべるのは男も同じだ。その無機質な音声が繰り返される前に接続を切る。忽ち喧騒が耳に届いて、息を漏らす。
「電源が入っていないのでは?」
「だったら『電波の届かないところに』ってアナウンスが流れるはずだもの」
 小さな不審を打ち消すための要素を次々と、まるで重箱の隅の如く探し出す。けれどもその因子さえ安里自身が打ち消してしまう。
 
 さて、これはどういうことなのか。安里は小さく顎を引いた。この状況がかつてないイレギュラーであることは理解した。アサトが待ち合わせに現れないこと、待ち合わせに遅れる連絡を寄越さないこと、連絡がとれないこと。不可解が三つも重なれば、それは瑣末ではない何かを否応無く予期させる。
 
 ――予期で済めばいいんだけど。
 仕方なく、今度は彼女をよく知る人物へと発信した。
 
『Aurora syndrome』


asa10_s at 00:16│Comments(0)小説。創造と想像 

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